ビデオ[Rondo Piccolo]を観て

いつもけなげな未森姫の夢と希望の物語

小野千賀子

 自分の見た夢を克明に綴って、何日も続けると気が狂うという話しを間き、気が狂うなんてまさかあるまいと試しに自分もやってみたことはある。高校生の時のことだ。なにしろ明りをつけるのももどかしくノートに記すわけだから、後で読み返すと判断不能だったりすることもままある。結局、この習慣は受験シーズンの訪れと共に3か月ほどで終わってしまったが、空を飛んだ夢、色に追い掛けられた夢など今も覚えている夢はほとんどこの頃見ている。今は仕事に追い掛けられる夢は見ても、色に追い掛けられるなんて荒唐無稽な夢はまず見ていないように思う。
 夢とは、一晩に5回くらい訪れるREM睡眠の問に訪れる映像的な体験を伴う記憶を指す。なのに人は、一晩に見た5本の夢のうちたかだか最後の1本を覚えているに過ぎない。この夢日記にしても、ノートに記すことで脳というフィルターを通過しているわけだからひょっとして本来の姿ではなく、私自身の語りやすい形で創作が入っているに違いない。私が語る夢は私の見た夢とは違う。
 なぜこんな話題を出したかというと、遊佐未森の新しいビデオ『Rondo Piccolo』を見て、夢を見ていた頃の自分を思い出したからだ。
 この作品は、ある種のミュージカルのスタイルを持っている。「大事なものは空から降ってきました」という彼女の言葉で始まるストーリー。主人公は、天空に住んでいるお姫さま、天使、あるいは星の王子さまならぬ星の王女さま。沖縄ロケをしたという映像のほとんどがモノクローム、地面の白と黒をにじませたような木々や家の影の部分とのコントラスト。それは色彩のない夢に現れる田舎の光景だ。遊佐未森(=天空の人)に命を吹き込まれた、白いコスチュームに身を包んだダンサーたち。気紛れな創造主であるお姫さまは、彼らの無機的なダンスに加わって歌いながら行進に加わる。亜熱帯の厚い緑はあるけど生命は無い、風はふいているのに空気はあくまでもぬるい。そんな光景の中で、唯一生きているらしく思われるのはお姫さま本人だけ。やがてダンサーたちはネジが戻り切った人形のように動きを止める。お姫さまはもう一度生命を吹き込もうとするが、すでにその能カは失われてしまっている。悲しみの感情を体験したお姫さまは、やがて本当の人間となることを決意する・…と、これは映像から私が勝手に読み取ったストーリー。
 ここで、それまで静寂を保ってきた映像がいっきに動き始める。ぼんやり青く広がる空と海そこに大きな帽子と大きな衿がトレードマークでどこかファンシーだった遊佐未森が、髪を切り、帽子を脱ぎ捨て、自いショートパンツ姿で太陽の下に歩み出すのだ、。カメラでさえ水の中に入り彼女を見上げている。前作までのビデオを見た人なら、この劇的変化に驚くかもしれない。
 「こころまでが新しい感じで、まるで長い眠りから醒めたよう。何かが変わるかな」
 髪を切った遊佐未森は、それまでの物寂しげなお姫さまの時と打って変わって明るい表現でこう歌う。まさかこのシーンのために作った曲でもあるまいが。
 このストーリーは、きっとこう読み替えることも可能だ。「夢見るお姫さまだった彼女自身が1歩大人に近づいた、その新しい誕生の物語」。フロイト流に言えば生れ変りたい欲求の現われ。従来の熱心なファンの人にとってはどう映るかわからないが、少なくともここ数枚のアルバムを聴いた程度の、しかも同性である私にとっては、むしろこう考えたほうが親しみやすい。
 (こんなくさいことは書きだくないのだけれど)大人になっても子供の頃の夢や記憶を覚えていることは難しい。しかしミュージシャンとか画家などのアーティストの中にはこうした記憶を覚えていて、表現するだけでなく見る側・聴く側の記憶まで喚起する作品を作る人がいる。個人的な記憶と結び付くわけではないのに、感情の奥深くの何かを誘発しにかかる。はまると気分はいいけれど、はまり過ぎると辛い。遊佐未森という人も、多分そんな一人だ。
 記憶の表現、あるいは再来が良いことか悪いことか、私には分からない。ただ、少なくとも遊佐未森という女性のこうした感性を羨ましいと思うことはあるし、『Rondo PiccoIo』を見てしばし優しい気分に浸れたことも確かだ。