ここ数年、世のなかでは悲しいことや痛ましいことが、たくさん起きている。人はもう何かを傷つけずには生きられないほど、どこかを病んでいるのだろうか・・・・・・。なぜ、さまざまな生命を、白分の生命と同しように慈しめないのだろう・・・・・・。気になるのは、目先のことばかり。忙しさを口実に、大事なことは見て見ぬふり。そうして日々幕らしている我が身を振り返り、そんなことを、ふと思った。
きっかけは、遊佐未森の新作『echo』。またしても、の成り行き。いつからか、彼女の音楽は私の心の奥深いところへ、必ず小石を投じていくようになった。それは、言ってみれば、“問い”みたいなもの。「どうしてなんだろうねえ」「こうだったらいいねえ」という、小っちゃくて素朴な、一人ごとのような“問い”。でも、実はものすごく大事な“問いかけ”を、そっと残していくようになった。
だから彼女の音楽を耳にすると、どうしようもなく心が揺れる。知らんぷりを決めこんでいた心も、にわかに動き出す。桔果、心に淀むアクも忘れていた幼な心も、すべてが一度に浮き上がるよう。私にとっては、まさに“寝た子を起こす”音楽であり、歌であった。
そしてこの『echo』でも、寝た子は起こされた。しかも今回の起こされ方は、これまでで一番激しく強い。もちろん曲調やサウンド感によって、カまかせに揺すり起こされたわげじやない。前作『roka』でタッグを組んだカラム・マルコムを再びプロデュースに迎えスコットランドに約1カ月半滞在し、現地のミュージシャンとじっくり創り上げたサウンドは、どこまでも穏やかで優しい音だった。水のように透明で豊かな、耳からまっすぐ胸へ流れ落ちる、そういうサウンドだ。
けれども、その穏やかさと裏腹に、私の心はザワザワ波打つ。優しい音楽の芯に、まぎれもない“生命”に対する憧れと喜びを感じ胸がときめく。人問だけでなく、この世にあるすべてのものへ向けた慈しみの気持ちに、胸打たれる。なぜだか、そう歌われていないにもかかわらず、“生かし合わなければ、何ひとつとして生命を保てない”と『echo』というアルパムは歌っているような気がしてならなかった。
Echo−。反響とか共鳴という意味を持つこの言棄こそ、今、最も大事にしなくてはいけないものかもしれない。水も木も、虫も魚も、動物も人間も・・・・・・、それぞれが共鳴し合って生きている。山が涙を流せぱ、いずれは人も涙を流すことになる。誰かを傷つければ、自分も傷を負うことになる。そのように、共に響き合うものなら、悲しみや痛みで呼び合うのではなく、喜びや愉しみを響き合わせなければ・・・・・・。
遊佐未森の11作目のアルバム『echo』。それは、そんな問いを私に投げかげる。彼女にそのつもりがあるかどうかは、わからない。だが、タイトル曲『エコー』をはしめ、どの曲にもそうした問いを、私は確かに感じた。そして、またしても心は大きく揺れ、いつにも増して彼女の歌へと、強く強く共鳴する一。
前原雅子