川の哲学…遊佐未森・死と再生の世界

 遊佐未森の初期からのファンであれば、馴染み深い作品世界のモチーフとして「ソラミミ楽団」が思い浮かぶに違いない。音楽による人と人とのつながりを説いたこのモチーフは、多くの人間の心をつかんだ。また遊佐未森をして「田園歌手」と評する向きもある。彼女ののどかな歌声は、聴くものの心を安らぎへと導く。

 彼女の歌う場面には、互いに完全に信頼し合う多くの人々が登場する。そこに描かれた光景は、一つの楽園である。だが、「きみ」と「ぼく」の物語として歌われることの多かったその場面は、多くの場合聴くものが持ったことさえなかった光景である。楽園は、しばしば失われることが暗示され、あるいは現実に失われてしまったことが告げられる。刹那の喪失を前提としたパラダイス。これこそが、遊佐未森の歌い上げる世界に共通した特有のテーマであるように思われる。

 この「失われるはかなさ」は、しばしば死のイメージとして歌の中に現れる。「虫の話(モモイズム)」を取り上げてみよう。夏の夜に今宵が盛りと乱舞する虫(おそらくは蛍)に仮託して想いを切々と朗読し、また歌い上げるこの作品は全編、死を目前にした刹那のきらめきに焦点が当てられている。「手をのばしても声をからしても/時はいつのまにか流れて行く」。ここには容赦なく流れ去っていく時間が歌われる。

 流れる時間の行き着く果て。それは死である。虫たちは、一夜のダンスを踊ったあと、あまりにも儚くその命を終える。死によって分かたれた刹那のダンスのパートナーたちが再会することは、二度とありえない。だからこそ虫たちの「ひとつひとつの瞬間」は、輝かしく美しい。まるで、いつかは失われてしまうからこそ、楽園が楽園としてありうるかのように。そのような刹那の輝きこそが、遊佐の歌う楽園そのものであるように思える。彼女の歌の中では、我々人間自身が虫たちのように一瞬のきらめきを追い求めて生きていく。

 あるいは「野の花(HOPE)」はどうであろうか。冬の野に、時期を間違えて生まれてきた一輪の花。「差し出した僕の指先に顔そむけ」る野の花は、愛を受け入れない者の象徴として解釈すべきなのだろうか。ならばなぜ、花の生まれてきたのが「早過ぎる季節の丘」なのか。愛を受け入れない者を表すならば、それこそ「星の王子さま」のように、何気ない庭に生まれた一輪の薔薇を歌うのでも良かったはずだ。私は、この「野の花」は死者の象徴であるように考えるのである。

 早すぎる季節。冬の丘。そこには生命がなく、死のイメージが支配する場所である。季節の巡りに従い、その場所は徐々に「みんな目覚めて寂しくない」場所へとなっていくだろう。だが、一面の花は死のイメージを払拭するものではない。花咲き乱れる丘。それは天上の花園であり、墓地ではないのか。「野の花」は早すぎる天国に咲いてしまった花だと考えられるのである。すなわち、この歌の含意は、実は夭折したものへの哀悼なのではないだろうか。

 「風吹けば君を想う」のは、早すぎる丘に生まれた=早すぎる死を迎えた者への追憶である。部屋の中には「からっぽの花瓶=死んでしまった者を思い起こさせる遺品が虚しく眠っている。そして歌の終わりに語りかけられる「みんな目覚めて寂しくないよね」という台詞。この歌詞は、いつの日か「野の花」のいる場所に自分や友人や恋人が逝き、再会することができるだろうと言っているのではないか。丘に咲く一輪の花は、一人の死者の魂である。静かな春の風の中、花たちは安らぎに揺られる。いつかは誰もがたどり着く永遠の場所で。

 このような死のイメージが最も顕著な歌として、「空耳の丘」の中の佳品「ひまわり(空耳の丘)」が挙げられる。一聴したところでは、若い兵士が夏の休暇を取り故郷へ帰るという、田園の一幕を歌った作品だと思うのみであろう。だが、のどかな場面が想像できる明るい調子の歌であるにもかかわらず、この歌からは漠然とした不安が感じられる。その不安は、あるいは一種の不気味さといったものとして迫ってくるかもしれない。

 この作品に歌われている場面の不自然さ。それは、ありとあらゆるものの恒常性、変化の無さに帰着する。遊佐は限りなく広がる風景を歌う。「どこまでも続くひまわり畑」「小さな駅を幾つ数えたら」。そして繰り返されるフレーズ「窓の外はひまわり。ひまわり」。列車はどれだけ走っても、小さな駅を永遠に数えていくだけである。この列車は、決して目的地に到着することはない。そして列車と兵士は、一面のひまわりの光景から逃れることができない。

 死の世界を生の世界と分けるもの。それは時間の存在である。時間という言葉は、生の世界における変化のダイナミズムそのものを表している。物事が移り行くことそれ自体が時間の流れであり、生の世界の存在そのものである。一方、死の世界は明らかに「未来」という可能性を持たない世界である。死は、人間のすべての可能性を奪い、人間としてのありとあらゆる成長を止めてしまう。死は時間の止まった世界である。そこには変化はありえない。ここに、変化のない「ひまわり」の世界が重なってくるのである。

 遊佐は歌う。「風を受けても汗は乾かない」。このフレーズには二つの意味が隠されている。汗は乾かない。なぜなら、死者には全ての変化がないからである。地獄というものは、責め苦を受けることに特徴があるのではない。その責め苦が永遠に続くところに地獄の地獄たるゆえんがあるのである。ならば「ひまわり」世界における永遠の不変化は、「汗」に示された不快な気温の高さをさておいても、主人公の兵士が一種の地獄に置かれているということを意味しないだろうか。

 このフレーズには、もう一つ、兵士の置かれた世界がイメージの世界であるという意味が隠されている。兵士には「子供の泣き声」「車掌の靴音」「子守り歌のリフレイン」が聞こえる。だが、彼は子供も車掌も子守り歌を歌う母親の姿も見ることができない。なぜなら、その列車の中には、若い兵士のほかに誰一人存在しないからである。いや、恐らくは若い兵士自身でさえも存在しないのだろう。この世界は兵士の肉体を遊離した場所に存在している。それは、すでに肉体を失ってしまった兵士のイメージの中でのみ存在している。すなわち、この世ならざる世界、死の世界である。

 第一、兵士に「夏の休暇」などあるだろうか?兵士にとっての休暇。それは負傷による後方待機か、死である。死んだ兵士の死骸は故郷へと送られる。そして恐らくは、この若い兵士も。「小さな駅を幾つ数えたら/あの地平へ眠れるのだろう」。この眠りとは、地平の下での眠り、すなわち墓中での永遠の眠りを指すのではないだろうか。「彼の顔は一駅ごとに子供の顔に(知らない顔に)なっていく」。「気の良い父と働き者の母」に囲まれた子供時代。それは安らぎの場所である。そして、死は徐々に彼自身をも奪い去っていく。彼は彼ではないものになっていき、そして無に還る。

 このように死のイメージの強い歌として、他には「WATER(ハルモニオデオン)」が挙げられる。この短い歌の歌詞には、死のイメージが満載されている。「君に送る手紙」は「言葉にならないまま」消えてゆく。生まれ出る間もなく消える言葉は明らかに死のイメージを持つ。

 さらに、この言葉が「君」に送られた「手紙」であることにも注目したい。何のために言葉にならない手紙を送るのか?愛を伝えられないことを歌っているのか?いや、違う。「指をすべり落ちる銀の一滴に永遠の想いのせて」。この銀の一滴は、言葉そのものであると考えられる。一滴は、河の大きな流れの中に溶け込んでしまい、一瞬に消えてしまうが、永遠の思いが込められている。ここには、先にも延べた「未来のない」死のイメージが見られる。死の一瞬には、人生すべての記憶が甦るといわれている。銀の一滴が落ちる瞬間、載せられた永遠の想いは、死の直前に吹き出したあらゆる想いなのではないだろうか?死の直前の「想い」の全てをつづった手紙は、通常「遺書」と呼ばれる。

「川を見ていると時が揺れる」という、世界の恒常性を表すフレーズについても述べよう。川は流れているはずである。流れを見ることによってのみ、時は「揺れる」ことができる。だが、時は流れない。ここに動きはない。水は絶えることなく、淡々と流れていくのみである。凍りつき、止まってしまった「川の流れ」。この歌が創り出す光景は、この「止まってしまった流れ」の川の水面のみである。この光景もまた、変化を忘れた恒常性の地獄の景色の一種であると考えることができる。それは、生の世界と死の世界の境界という象徴を持つ、「三途の川」であるとも言うことができるであろう。

 だが、遊佐未森の世界は、死ばかりによって彩られているわけではない。確かに、遊佐の世界における「死」は、逃れようもなく絶対的なことである。しかし、それだからこそ、遊佐の世界はある一点…「再生」…に集中して、魅力的な色彩を帯びてくるのである。人は再生することによって死を乗り越え、別れの果てに再会をはたすことができる。このテーマこそが、遊佐の世界に覆い被さる死の影を力強く取り払い、ある種の「永遠性」とも言うべき魅力を与えているのである。

 遊佐未森における「再生」と「永遠性」のイメージは、枚挙にいとまがない。「緑の絵(水色)」において、歌っている何か(恐らくは一本の大樹)は、いつまでも「あなたを待ってる」ことを約束する。たしかに「今は振り向かずに歩き始め」なければならず、この歌でも「眠ることのできる」楽園は一瞬にして消えてしまう。だが、「あなた」が忘れる日が来ても、依然として「あなた」には帰れる場所がある。その場所は永遠である。「ピクルス(アカシア)」においては「やっとこんなふうに歩きはじめている」と、離れ離れになっていた者たちの再会が歌われている。そこには在り得る「未来」が確固として在り、永遠を約束している。そして、上の2曲とは傾向の違う「森とさかな(モモイズム)」においても、生命同士の見えない結びつきが、世界の永遠のサイクルを物語っている。

 特にアルバム「ハルモニオデオン」においては、永遠をめぐるテーゼがアルバムコンセプトとして取り入れられていると思われる。「ふたりの記憶」における鉄の記憶は、まさに肉体(物質的な形)に囚われない輪廻を物語っている。「時の駅」は生や死を超えたところにある縁の不思議さを歌っているといえよう。そして生き物の間につながる連帯とを描いた「僕の森」。これらの楽曲は、すべて通常の「死」や「生命の限界」を超えたところにある「ぼく」と「きみ」との結びつきを歌っている。これらの歌が、このアルバムにおける「永遠性」のモチーフに深く寄与していると言えよう。

 先に「WATER」を分析したときに、死の象徴として動きと時間を失ってしまった「川の流れ」を取り上げた。だが、遊佐未森の世界では川は同時に、変化や再生の象徴としての役割を持たされている。アルバム「ハルモニオデオン」の中で、「WATER」の次に「空色の帽子」がマウントされていることは、遊佐未森世界の全体構造を語る上でこの上ない設計図を与えてくれていると思われる。

 死のイメージをもたらす静かな曲「WATER」に続き、「空色の帽子」の出だし「川の流れに逆らって/びしょ濡れではしゃいだね」となっている。ここでは、川はすでに「見ることしかできない」三途の川ではありえない。ここに歌われている川は、中に入って遊ぶことのできる現実の川、生活の川である。確かに、この歌においても川は「別れ」を象徴していると思われる。しかし、同じ川は幼少期の大切な思い出であり、「きみ」と「ぼく」をつなぐ通路になりうる存在である。「川の流れを届けたい/遠くなってく君へ」というフレーズには、川を通した再会、切れてしまった精神的紐帯の再結合の願いが込められている。川は、この歌においては、死と再生の両方のイメージを持つのである。

 死と再生のイメージの川。それは初期の名曲「Destination(瞳水晶)」にすでに見られる。「小さな川に沿って歩いてゆく/いつかめぐり逢う海にひかれて」。すべての川は海へと流れ込む。あたかもすべての生が死へと流れ込むように。「人たちの群れは朝の街に駅に変わらぬ景色を作るのでしょう/いつか私が消えた後にも」。流れる人の群れは、川の流れと重なり、死のイメージを形成する。そこには「私」は必要とされない。「私」は川の「滴」となることはできるだろうが、そのまま流され海へと行くだけの存在である。

 だが、同時に「海」は、すべての生命の母親のイメージを持つ。川は、誕生の場所へとつながる道でもあるのだ。ここに、遊佐の世界の「永劫回帰」と言ってもよい世界観が現れている。「いつも同じと思った草たちも毎年違う花をつけていた」というフレーズには、「人たちの群れ」の持つ不気味な恒常性(動きのなさ)と似ているようで決定的に違う、自然の営みのダイナミズムが歌われている。「森とさかな」「僕の森」でも見たように、遊佐の世界にとって自然は常に「生命」であり「再生」であり「永遠」なのである。「懐かしいのは昨日じゃなくて…遠くで呼んでる明日の私」。遊佐の求めるものは変化のない記憶・死の世界である昨日ではない。遊佐の世界が希求するのは、明日にこそある輝かしい生命に彩られた「永遠」なのである。

 「川は流れて行く/僕の胸に/とどまることもなく」(「川(空耳の丘)」)。遊佐未森は刹那の楽園を歌う。避けることのできない別れ、すなわち死を歌う。しかし、その楽園喪失は救いのないものではない。死は遊佐の世界にとって超えられないものではない。逝く川の流れが元の流れではなく、しかし同時に元の流れであるように。死に逝くものが二度とは甦らず、しかし生命の永遠のサイクルを構成しているように。遊佐未森は再び会える未来を、その永遠の日を歌う。

 なお、文中引用歌詞の作詞者は遊佐未森・工藤順子。著作権は各作詞者とレコード会社に帰属します。各アルバムのライナーを参考に引用しました。


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